人間家族 1998.1・2月号
「ナナオ・サカキと Nanao Sakaki
〜英訳新詩集“Le's Eat Stars" 刊行を記念して」
(by 遠藤 朋之)
「ナナオ・サカキ」と言えば、この雑誌の読者の方なら、当然ご存じであろう。中には朗読会にまで足を運んで、やたら元気のいい、仙人のような風貌の詩人を目の当たりにし、あの独特なリズムの素晴らしい詩に耳を傾け、明日の分の元気をもらってきた人だっているだろう。
しかし、“Nanao Sakaki”となると、話は違ってくる。自分で英訳した詩集を、既に4冊も出版している詩人になるのだ。そうなると、その詩集4冊を、今手元に持ち、覚束ない英語ながらも、アメリカの詩を読むのが大好きなボクは、ナナオ(こう呼ばせてもらいます。その方がナナオらしいので)の英語詩集について、何か書く条件だけは、少なくとも満たしていそうだ。
ナナオの英訳詩集4冊のタイトルは、『腹一杯の奴ら(Bellyfulls)』、『本当の遊び(Rea1 Play)』、『鏡割るべし(Break the Mirror)』、そして『星を食べようよ(Let' s Eat Stars)』。それぞれ66年、81年、87年(96年には再版)、97年に出版されている。(『腹一杯の奴ら』は『星を食べようよ』に、『本当の遊び』は『鏡割るべし』に各々収録され、『鏡‥‥』と『星を‥‥』を持っていれば、Nanao Sakakiの英語詩すべてに触れることができるようになっている)。
表紙は皆、それぞれに味があるもの(ナナオお得意のヘノヘノモヘジのものやら、ナナオがこっちに向かって手を上げている写真やら)になっている。特に、最近の『星を食べようよ』の表紙は、ナナオの詩にも出てくる、砂沢ビッキのシャケの版画だ。
『星を食べようよ』を除いては、序文をゲーリー・スナイダーが書いている。スナイダーも、この雑誌には常連の詩人。昨年アメリカで、最も権威ある賞ボリンゲン賞を受け、7月には来日、素晴らしい朗読を聞かせてくれた。そのスナイダーは、『鎗割るべし』の序文で、ナナオの詩をこんな風に評している。
「ナナオという人物、そして、生み出される作品や、歴史に対する知識は‥(中略)‥、元をたどれば、タオイストの中でも最も元気だった、荘子にまで遡(さかのぼ)ることができる。ナナオの詩は、手や頭で書かれたのではない。足で書かれたものだ」
そして、最後には、こんな素敵な言葉を残している。「ナナオの詩を靴に入れて、何千マイルも歩こう!」
○
では、こんなに素晴らしい詩、そしてそれを生み出してきた詩人に、英語の観点から光を当ててみよう。
ナナオと英語の出会い。あるインタビュー(注1)で、ナナオはこう答えて入る。少々長いが引いてみよう。
「先年亡くなった鮎川信夫さんが、僕の英語の先生なんだ。戦後、僕は上野の地下道にいたんです。そこで、友達の関係で鮎川さんと知り合う。その後、僕は改造社という出版社にいた。‥(中略)‥でも僕はぜんぜんつまんないから、フーテンになりたくて、そこもやめちゃうわけです。その時、ふと鮎川さんのことを思い出して、尋ねて行くんです。(T.S.)エリオットの『荒地』を、是非彼の訳で読みたいと言ってね。すると彼は『あんた英語読めないのかい?』と言う。僕は全然知らない。学校は出てないから。すると彼は『英語やれば』と言って、僕に本をくれるの。それは、バーカリーという人の書いた『英文法通論』で、それじゃやってみるかといって始めたのが、英語との付き合いなんだ」
鮎川信夫と言えば、荒地派の代表的な詩人だ。こんな人が英語の先生とは! そして、読みたいものがエリオットの『荒地』。この作品は、今世紀初頭、モダニズムの金字塔的な作品で、難解さで聞こえているものだ。今のナナオの詩風とは、およそ正反対の、手と頭で書かれたもの。そして、その『荒地』を、鮎川信夫訳で読みたいという。
荒地派を、極大ざっぱに説明すると、第一次大戦後のヨーロッパ、ロンドンを下敷きにして書かれた、エリオットの『荒地』という作品に、第二次大戦後の東京に住む自分たちの心情を重ねていたグループ、ということになる。第一、自分たちのグループの名前が、当のエリオットの作品から採られている。
その中心的人物、鮎川信夫の翻訳で『荒地』を読みたいというのは、至極まっとうな考えである。だがおそらく、その後ナナオは、『英文法通論』で英語をマスターし、後に出版された鮎川訳を必要とせずに、原文で『荒地』を読んでしまったのだろう。
○
ナナオと英語に関して、最近もうひとつ面白い話を読んだ。作家の宮内勝典氏が、ナナオと初めて会った時の話である。これはある鼎(てい)談(注2)で、宮内氏が語っていたのだがーー。
「ぼくが(アレン・)ギンズバーグのことを初めて知ったのは、鹿児島で高校生をやっている時で、喫茶店で髭(ひげ)を生やした仙人みたいんおじさんが、髭をしごきながらジェイムズ・ジョイスを読んでいるんですよ、原書で(笑)。それが、ギンズバーグが詩にも書いている、ナナオという人でした」
ナナオを知る人であれば、「はははっ、ナナオらしいなあ!」で済むところだが、知らない人であれば、当時の宮内氏でなくても、今だってビックリするだろう。それも読んでいる本が、これまた難解の極北、ジェイムズジョイス。
どんなエピソードからも判るように、ナナオの詩を、ただの民芸品と思ってはいけない。
連綿と続く古今東西の文学を読み漁り、吸収し、その結果選ばれたスタイルが、あの詩なのだ。
別の言い方をすれば、今ナナオは、歴史が現在と出会う地点で詩作をしていることになる。
○
ちょうど今、宮内氏の話で「ギンズバーグが書いている」という話が出てきたので、アメリカの詩人たちがナナオのことをどう見ているか、紹介してみよう。
まずは、ギンズバーグから。そのものズバリ「ナナオ」という詩だ。『コスモポリタン・グリーティングス(Co-smopolitan Greetings)』という詩集に載っている。
たくさんの渓流に洗われた頭
四つの大陸を歩いてきたきれいな足
鹿児島の空のように曇りなき目
調理された心は驚くほど新鮮で生
春のサケのような活きのいい舌
ナナオの両手は頼リになる、星のように鋭いペンと斧
ピーター・オーロフスキーと
一九八七年六月
(注3)
さすがギンズバーグ、ナナオの笑っている顔写真付き履歴書を、読んでいるかのようである(もちろん、学歴がどうの、といった履歴書なんかではなく、身長170cm、体重60kg、時速6km、山水狂徒ナナオの履歴書だ)。
そして、最終行。斧は手に持って木を切るもの(肉体作業だ)。しかし、その同じ手でナナオはペンを持ち、詩を作る。そのペンと斧が、ナナオの特によく登場する、宇宙の星のように鋭いとは!
○
次に、先ほども名前の出た、スナイダーの「ナナオは知っている」になるとーー。
山々、都会、すべては
実に軽やかで、実にしまりがない、毛布、
バケツーーみな捨ててしまえーー ’
やるべく残された仕事。
そんなもの いつまでもあるわけはない。
娘たち、ひとりひとりが本物で
乳首は固くなり、
ひとりひとりが湿った箇所を持っている、
彼女の匂い、彼女の髪ーー
ーーぼくは一体何を言おうとしているんだ。
ほら、みんなが行くだろ
境界を越えて消滅して行く。
リヴェット工は
湿ったコンクリート用の
鋼鉄棒を束にして縛リあげる。
森、都会、家庭の中や外へ、出入り勝手
まるで 魚だよ。 (注4)
この詩は、少し説明がいるかもしれない。70年代半ばに、スナイダーはナナオと一緒に、人類はどうしたら生き残れるかについて、話し合う会議に出席したことがあったそうだ。皆で、喧々がくがくの話し合いをしていると、突然ナナオが、“You guys all wrong! No need to survive!(「お前ら、みんな間違っているよ! 生き残る必要なんてないんだから!」)と言った
そうだ。すると、みんなそれを聞いて“What a relief!(「ほっとしたよ!」)”
こんなトリックスター的なナナオの側面、それと「山々、都会」が完全に分断されたものではない「しまりのない」ものと捕え、その二つの間を「軽やか」に行き来するナナオを、良く表しているのが、最初の連である。
すると、そんなナナオに釣られて、スナイダーまでがヘンなことを考えてしまう(「ぼくは一体何を言おうとしているんだ」)。いや、そうでもない。人間だって、内なる自然を持っているのだから、山と都会の「境界を越えて(自然へと)消滅していく」のだ。
そして人間の「森、都会、家庭の中や外へ、出入り勝手」な姿は、「まるで、魚」である。障害物をすリ抜けて、スイスイ泳ぐ魚のイメージは、ピッタリではないか。
では、人間が「森、都会、家庭の中や外へ、出入り勝手」なことを、一番良く知っているのは、だれか。もちろん、“Nanao Knows”だ。
○
ここに、面白い本がある。Earth Prayers(『地球の祈リ』)という本だ。サブタイトルには、「世界中から集めた、地球を賛える365の析リや詩」とある。1日1篇ずつ読むと、1年間毎日地球への祈りが捧げられるようになっているわけだ。文字通リ、世界中のものが集められており、目次を見ているだけでも楽しいし、読めばもっと楽しい。
ナナオは、こんな所にもひょっこリ顔をのぞかせている。収録されているのは3篇。「これで十分」、「なぜ山に登る」、それに「ラブレター」だ(もちろん英語)。
ほかに収録されているものでは、ネイティブ・アメリカンやエスキモー、アフリカのブッシュマンや、オーストラリアのアボリジニなどのチャントが多数、アメリカの詩人であれば、スナイダーはもちろん、ナンシー・ウッド、ウェンデル・ベリー、ルー・ウェルチ、デイヴィッド・イグナトウなど、枚挙にいとまがない。日本の詩人では、チナオのほかに、谷川俊太郎さんが選ばれている。
これを見ただけでも、アメリカでのナナオの評価の高さが判ろうというもの。その理由には、ナナオがアメリカの沙漠を良く歩いた足で、詩を書いているということもあるだろうが、ナナオの英語が、完全なアメリカ口語だ、ということが大きいのではないだろうか。
アメリカで、アメリカ語(イギリス語ではない)を使って初めて詩を書いたのは、恐らく、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ。
ここは、イギリスではない。だから、イギリス伝統の詩ではなく、アメリカの言葉を使ってアメリカの詩を書こう、というウィリアムズの考えから、現代アメリカ詩が始まった、と言っても言い過ぎではあるまい。そのウィリアムズが、晩年にその詩を認め、処女詩集の出版に力を貸しだのが、アレン・ギンズバーグ。あの『吠える(HOWL)』の序文を書いたのも、ウィリアムズである。そのギンズバーグの日本人の友人が、ナナオということになる。
どれをとってもアメリカ口語で書かれているのだが、『大も歩けば』所収の「ことづて」の英語版“A Message”を見てみよう
The crescent moon sets
Star light
Wind light
Lightning
From the Galactic center in Sagittarius
A mosquito
On my nose
“Sagittarius”が射手座だと知っていれば、後は難しい単語はない。“Star light/Wind light/Lightning"の夜、大自然の中にナナオはいる(原文の「風あかリ」の訳、“Wind light"は、英語の"light"に、「軽い」の意味があるため、「軽やかな風」の意味も出てくることも指摘しておこう)。
そこで、射手座を見ているナナオの視界に、突然蚊が入る。それが、ナナオの鼻の頭に止まった。それが「(射手座からの)メッセージ」だと言う。何とも「軽み」のある句(と、つい書いてしまったが)ではないか。アメリカ人が読めば、“Haiku”と言うであろう。ナナオは、その射手座からのメッセージをしっかりと受け取リ、2、3日鼻の頭が、かゆかったに違いない。
少し面倒な話をすれば、この詩の特徴は、知覚の順序の表現ということになるだろうか。
最初に、沈む三日月、つぎに星、風、稲光。そして射手座、蚊、その蚊が鼻の頭に止まるところ。ナナオの知覚は、この順番だ。それを無駄な言葉など一切なく、簡潔なイメージとして提示している。
これは、今世紀最大の(と言っても良いであろう)詩人、エズラ・パウンドの“Chain of events”(物事の起こる流れ、順番)という考えに通じる。
そして、ギンズバーグやスナイダー、ジャック・ケルアックたちビート詩人の信条“First thought is the best thought"(最初の考えが最良の考え)へと、受け継がれたものだ。
ナナオは、それをしっかりと自分の詩の中で消化している。ウィリアムズ、パウンドの二人共、太平洋の反対側で、こんな詩人が出てくるなんて、思いもしなかったことだろう。
○
このように、アメリカで評価の高いナナオ、今年はイギリスヘも進出することが決定した。Selected Poems and one Play by Nanao Sakakiという本が出版になるのだ(エセックス大学出版局発行)。夏には当地で朗読会も行い、ついでにアイスランドまで足を伸ばしてくるそうだ(この気軽さがナナオらしい)。
日本と同じく、詩の長い伝統を持つイギリス。その詩の世界に、"Nanao Sakaki"が新風を吹き込み、多くの人がその詩を読んでくれるようになることを、願ってやまない。
注1:88年『現代詩手帖』臨時増刊「ビート・ジェネレーション」332ページ。
注2:97年『現代詩手帖 特集版 アレン・ギンズバーグ』23ページ。
注3:『現代詩手帖 特集版 アレン・ギンズバーグ』87ページ、原成吉訳を引用した。
注4:思潮社『スナイダー詩集 ノー・ネイチャー』金関寿夫訳を引用した。
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